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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

二、勝浦

 〜船から馬を追い落とし〜

一、逆櫓(さかろ) 〜(たたか)いはひたすら()めるもの〜

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源義経(みなもとよしつね)は、やっと(あに)頼朝(よりとも)命令(めいれい)で、(てき)である平氏(へいし)を、やっつけに()くことになりました。梶原景時(かじわらかげとき)という(ひと)が、(ふね)(うし)ろに(すす)めるようにしたらよいといいましたが、義経(よしつね)は、にげることを(かんが)えるような用意(ようい)はしたくないといって、味方(みかた)どうしなのにけんかをしそうになりました。
目次 二、勝浦

 〜船から馬を追い落とし〜

詳細

思い起こせば、その短い戦いの日々は、わたくし与一にとっても、義経さまにとっても、人生の中でもっとも輝かしい時でございました。義経さまはさらなる手柄を立てて、兄、頼朝さまの信頼を得たいと願い、私はわが一族の名誉をかけて、屋島へと向かったのです。命をかけることこそが、男の生き方と信じて疑わない時代でした。そして、この人のためなら命をかけたいと思わせる大将が、義経さまであったのです。燃え上がる魂を抱いて、駆け抜けた讃岐路。その日々こそが、戦いに生きた男たちにとっての短い華のときでした。

元暦二年二月十七日、義経さまはいよいよ四国に向かうために、摂津の渡辺(注釈1:現在の大阪府大阪市)におられました。その日は嵐のような北風が吹き荒れ、船を出しても波にほんろうされるばかり。船出はしばし待つことになり、戦についての話し合いが重ねられておりました。船の(いくさ)にはなれないわが軍、そこで、あれこれと話しているうちに、知恵者で知られる梶原景時(かじわらかげとき)という人が、「このたびの戦では、船に逆櫓というものを立てると良いでしょう」と申されました。逆櫓とは、船を後ろへ進めるためのもの、それを聞いた義経さまは「戦いに行くのに逃げ支度をしてどうする」と腹を立てられました。すると、景時さまが「立派な大将というのは、退くべきときは退くことができるもの。ただがむしゃらに進むのは良い大将ではない」とおっしゃったのです。義経さまは「戦いというのは、ひたすら攻めて勝つから気持ちが良いのだ」とおっしゃって、今にもお二人の間に戦が起こりそうなありさまでした。

義経さまは、ただただ真っ直ぐに突き進むことしか考えない大将でありました。その先にあるものは、栄光だけだと信じて疑わなかったのです。

注釈1摂津の渡辺:現在の大阪府大阪市

屋島合戦の謎 その1

屋島合戦があった年の年号は?
屋島合戦があった1185年は、ある本では元暦2年とあり、ある本では寿永4年、また文治元年と表記してあるものもあります。この1185年には、2つの朝廷、後鳥羽天皇朝と安徳天皇朝がありました。そこで、後鳥羽天皇朝の年号としては元暦(げんりゃく)(1184年4月16日〜1185年8月14日)と呼び、安徳天皇朝としては寿永(じゅえい)(1182年5月27日〜1185年3月24日)と呼びます。そして、後鳥羽天皇朝は、同年の8月14日から文治(ぶんじ・もんち)という年号としました。
(中国の皇帝が時をも支配するという思想がもとになり、天皇によって年号が変わります。昔は、災いなどがあると、世の中を変えたいと、よく年号が変わっていました。1979年に公布された元号法では、皇位の継承があった場合に限り改めると規定されています。)