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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

六、古高松

 〜平氏はあわてふためいて〜 八、総門

 〜盛継の鎧を突き抜けて〜

七、内裏(だいり) 〜()()ちる(みや)

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義経(よしつね)はじめ源氏(げんじ)(へい)は、自分(じぶん)名前(なまえ)()のり()めこんでいきました。
源氏(げんじ)のなかでもお年寄(としより)後藤兵衛実基(ごとうひょうえさねもと)さまは(たたか)わずに、安徳天皇(あんとくてんのう)()まいであったところに()をつけて()やしてしまいました。
六、古高松

 〜平氏はあわてふためいて〜 目次 八、総門

 〜盛継の鎧を突き抜けて〜

詳細

義経さまのその日の衣装は、赤地の錦の(よろい)直垂(ひただれ)(注釈1:よろいや腹巻の下に着た衣服)に、(すそ)に向かって紫色が濃くなる(よろい)といういでたち。黄金づくりの太刀(たち)をさし、(わし)の羽根でできた黒白まだらの矢を背負って、藤をぎっしり巻いた弓の真中をにぎり、平氏の船をにらんでいました。そして、大声を張り上げて「一院(いちいん)(注釈2:後白河法皇のこと)御使(おんつかい)検非違使(けびいし)(注釈3:「けんびし」などとも言い、平安初期から置かれた役目で宮中の治安を行う。広辞苑によると、現在の裁判官と検察官とを兼ね、権限は巨大であった。)五位尉(ごいのじょう)源義経」と名乗ったのです。わが軍は次々と名乗りを上げ、馬を走らせました。平氏の船からは、次々と矢が放たれます。陸に上げてある船の陰に、馬を休めながら、わが軍は声を上げながら攻め戦っておりました。

後藤兵衛実基(ごとうひょうえさねもと)さまは、わが軍の中でもお年を召した方でしたので、磯での戦いには参加せず、まずは屋島にある安徳天皇(あんとくてんのう)さまの仮の宮である内裏(だいり)に向かいました。屋島へは、牛が浅瀬を見つけて渡るのを利用し、赤牛十数頭を海に追い込み、その後を追って八十騎ほどが進んだのです。そして、やすやすと内裏に火を放ちました。沖に出て我に返った平氏が、わが軍のほんとうの数を知ったときには、すでに燃え落ちた後。しかし、このままで平氏が引き下がるわけはありません。

注釈1直垂(ひただれ):よろいや腹巻の下に着た衣服
注釈2一院:後白河法皇のこと
注釈3検非違使:「けんびし」などとも言い、平安初期から置かれた役目で宮中の治安を行う。広辞苑によると、現在の裁判官と検察官とを兼ね、権限は巨大であった。

屋島合戦の謎 その4

平氏は少数の源氏軍になぜ追われたのか?
数千と言われた平氏軍ですが、話の中にもあるように、そのなかの三千騎は伊予(愛媛県)に出かけていました。とはいえ、義経は自分の軍より20倍はあろうかという平氏を、屋島から海上へと追い出したわけです。一の谷の義経の奇襲もそうでしたが、来ると思っていないところから義経軍がやってきたのに、まず平氏は動揺し、冷静な判断を失ったと思われます。平氏は、船隠(ふなかく)し(現在、庵治町に残る)などに船を隠し、海を渡ってくる源氏を待ち構えていたのに、義経は屋島の南の陸上部から現れたのです。もちろん、義経は大軍に見せるために手段を選ばす、一帯に火をかけ、旗だけを持った兵を走らせ、馬もばらばらと分けて海を走らせたことでしょう。あちこちから上がる火の手、あそこにもここにも見える源氏の旗、もくもくと流れ来る煙、渚を埋め尽くす水しぶき、屋島に退いて一年が経つ平氏には油断もあり、突然の戦火にあわてふためくばかりでした。しかし、何より、平家の情報収集の甘さと、義経の情報戦略の巧みさが際立った屋島合戦でした。