詳細
義経さまのその日の衣装は、赤地の錦の鎧の直垂
に、裾に向かって紫色が濃くなる鎧といういでたち。黄金づくりの太刀をさし、鷲の羽根でできた黒白まだらの矢を背負って、藤をぎっしり巻いた弓の真中をにぎり、平氏の船をにらんでいました。そして、大声を張り上げて「一院
の御使、検非違使
五位尉源義経」と名乗ったのです。わが軍は次々と名乗りを上げ、馬を走らせました。平氏の船からは、次々と矢が放たれます。陸に上げてある船の陰に、馬を休めながら、わが軍は声を上げながら攻め戦っておりました。
後藤兵衛実基さまは、わが軍の中でもお年を召した方でしたので、磯での戦いには参加せず、まずは屋島にある安徳天皇さまの仮の宮である内裏に向かいました。屋島へは、牛が浅瀬を見つけて渡るのを利用し、赤牛十数頭を海に追い込み、その後を追って八十騎ほどが進んだのです。そして、やすやすと内裏に火を放ちました。沖に出て我に返った平氏が、わが軍のほんとうの数を知ったときには、すでに燃え落ちた後。しかし、このままで平氏が引き下がるわけはありません。
直垂:よろいや腹巻の下に着た衣服
一院:後白河法皇のこと
検非違使:「けんびし」などとも言い、平安初期から置かれた役目で宮中の治安を行う。広辞苑によると、現在の裁判官と検察官とを兼ね、権限は巨大であった。
屋島合戦の謎 その4
平氏は少数の源氏軍になぜ追われたのか?
数千と言われた平氏軍ですが、話の中にもあるように、そのなかの三千騎は伊予(愛媛県)に出かけていました。とはいえ、義経は自分の軍より20倍はあろうかという平氏を、屋島から海上へと追い出したわけです。一の谷の義経の奇襲もそうでしたが、来ると思っていないところから義経軍がやってきたのに、まず平氏は動揺し、冷静な判断を失ったと思われます。平氏は、
船隠し(現在、庵治町に残る)などに船を隠し、海を渡ってくる源氏を待ち構えていたのに、義経は屋島の南の陸上部から現れたのです。もちろん、義経は大軍に見せるために手段を選ばす、一帯に火をかけ、旗だけを持った兵を走らせ、馬もばらばらと分けて海を走らせたことでしょう。あちこちから上がる火の手、あそこにもここにも見える源氏の旗、もくもくと流れ来る煙、渚を埋め尽くす水しぶき、屋島に退いて一年が経つ平氏には油断もあり、突然の戦火にあわてふためくばかりでした。しかし、何より、平家の情報収集の甘さと、義経の情報戦略の巧みさが際立った屋島合戦でした。