詳細
能登守教経が、越中次郎兵衛盛継を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。敵の侍大将である盛継が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇
十代の御子孫、鎌倉殿
の御弟、九郎太夫判官殿であるぞ」とおっしゃいました。
すると敵が「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬の稚児になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州
へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」と失礼なことを申します。
そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そいうお前らは、砥波山の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。そこで、金子十郎家忠さまが、「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」と、おっしゃる横から、弟の親範さまが敵に向かって矢を放ちました。
その矢は、盛継の鎧の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。
清和天皇:平安前期の天皇、源氏の先祖
鎌倉殿:源頼朝のこと
奥州:現在の福島・宮城・岩手・青森の四県と、秋田県の一部
屋島合戦の謎 その5
義経のことを九郎判官と呼ぶのはなぜ?
義経はいろいろな名前で呼ばれます。幼いときには「
牛若丸」、鞍馬寺に行って万物をあまねく照らす仏様の名前にちなんだ「
遮那王」、元服して源義朝の九番目の息子なので「
源九郎義経」、そして、一の谷の功績により検非違使に任ぜられ、この別名が「判官」です。「はんがん」とも読み、「判官びいき」とは源義経を悲運な英雄として同情することで、転じて、弱者に対するひいきを意味する言葉になっています。