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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

七、内裏

 〜燃え落ちる宮〜 九、菊王丸

 〜十八歳の若武者が〜

八、総門(そうもん) 〜盛継(もりつぎ)(よろい)()()けて〜

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平氏の能登守教経(のとのかみのりつね)総門前(そうもんまえ)にやってきて、両軍(りょうぐん)のあいだで(くち)げんかがはじまりました。悪口(わるくち)()()っているうちに、()()ばしあう矢合戦(やがっせん)がはじまりました。
七、内裏

 〜燃え落ちる宮〜 目次 九、菊王丸

 〜十八歳の若武者が〜

詳細

能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛継(もりつぎ)を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。敵の侍大将である盛継が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛(よしもり)さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(注釈1:平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの)(注釈2:源頼朝のこと)の御弟、九郎太夫判官殿であるぞ」とおっしゃいました。

すると敵が「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま)稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州(注釈3:現在の福島・宮城・岩手・青森の四県と、秋田県の一部)へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」と失礼なことを申します。

そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そいうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。

その矢は、盛継の(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。

注釈1清和天皇:平安前期の天皇、源氏の先祖
注釈2鎌倉殿:源頼朝のこと
注釈3奥州:現在の福島・宮城・岩手・青森の四県と、秋田県の一部

屋島合戦の謎 その5

義経のことを九郎判官(くろうほうがん)と呼ぶのはなぜ?
義経はいろいろな名前で呼ばれます。幼いときには「牛若丸(うしわかまる)」、鞍馬寺に行って万物をあまねく照らす仏様の名前にちなんだ「遮那王(しゃなおう)」、元服して源義朝の九番目の息子なので「源九郎義経(げんくろうよしつね)」、そして、一の谷の功績により検非違使に任ぜられ、この別名が「判官」です。「はんがん」とも読み、「判官びいき」とは源義経を悲運な英雄として同情することで、転じて、弱者に対するひいきを意味する言葉になっています。