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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

十、継信の最後

 〜名誉と思い冥土へ向かう〜 十二、渚にて

 〜扇の真中を射よ〜

十一、(おき)(ふね) 〜(うつく)しい女官(にょかん)手招(てまね)き〜

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源氏軍(げんじぐん)(へい)(すこ)しずつ()えていきました。そろそろ()()れるころ、(へい)()()げようとすると、一そうの(ふね)海岸(かいがん)(ちか)づいてきました。(おうぎ)(まと)()てて、(うつく)しい女性(じょせい)手招(てまね)きをして、(まと)射落(いお)とすようにとの(さそ)いの(ふね)でした。そこで、(ゆみ)名人(めいじん)として与一宗高(よいちむねたか)()()されることになります。
十、継信の最後

 〜名誉と思い冥土へ向かう〜 目次 十二、渚にて

 〜扇の真中を射よ〜

詳細

わずか百五十騎で、何千という平氏軍と戦うわが軍でしたが、そのうち阿波や讃岐で平家にそむき、わが軍が来るのを待ち望んでいたというみなさまが、あちこちから十四、五騎、二十騎と、連れたってはせ参じ、ありがたいことにわが軍は三百騎ほどになりました。その日は、そろそろと日暮れが近づく時間となっていました。義経さまが、兵を引き上げようとすると、沖のほうから立派に飾った小船が一(そう)、渚に向かって()ぎ寄せてきました。磯まで近づいたところで、船を横向きにしたのです。

「あれは何だ」と見ているうちに、船の中から十八、九ほどのまことに優雅で美しい女官が、柳の五つ衣に紅のはかまを着て、真紅の地に金箔で日の丸を描いた扇を竿(さお)の先につけ、それを船の縁板にはさんで立てて、こちらに向かって手招きをしたのです。まだ私は、何事だろうと不思議な気持ちで見つめておりました。

そして、義経さまは、故事にくわしい後藤兵衛実基(ごとうひょうえさねもと)さまを召されて「あれはどうしたことだ」とおたずねになったのです。「射よということでございましょう。大将軍の義経さまが正面に進み出て、あの美人をご覧になれば、弓の達人にねらわせて射殺してしまおうという計画でございましょう。しかし、そうであったとしても、扇は見方のものに射落させるのがよろしいと思われます」とお答えになられたのです。すると、義経さまは、「必ず射当てることができる者は、誰かおるのか」とおっしゃいました。そのときに実基さまは、「見方の中には、弓の名人が幾人もおりますが、中でも下野国(しもつけのくに)(注釈1:現在の栃木県)の住人、那須太郎資高(なすのたろうすけたか)の子で、与一宗高(よいちむねたか)こそは、小柄ではございますが、腕達者(うでたっしゃ)でございます」とおっしゃってくださったのでした。決して、射損じてはならない大切なお役目であったのでしょう。さらに義経さまは「証拠はあるか」とおっしゃったそうです。実基さまは、さらに「空を飛ぶ鳥を、三つに二つは必ず射落とします」と答えられたので、義経さまは「それならば、すぐに召せ」とおおせになられたのでした。

注釈1下野国:現在の栃木県

屋島合戦の謎 その7

なぜ、若い与一が扇の的を射ることになったのか?
「源平盛衰記」では、まず力持ちの畠山重忠が選ばれたが持病の脚気を理由に辞退し、与一の兄の十郎を推挙したが、兄は一の谷の合戦で負傷していたので、与一が射ることになったといいます。しかし、与一が弓の名手であったことは事実でしょう。那須家には、与一が扇の的を射た技は、「引目秘術」と伝えられているそうです。