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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

十六、瓜生が丘

 〜弁慶がつくる汁〜 十八、無常

 〜すべて散り行く〜

十七、志度合戦(しどかっせん) 〜わずか八十余騎(はちじゅうよき)で〜

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平氏(へいし)は、志度(しど)源氏(げんじ)をとりかこんでやつけようとしますが、反対(はんたい)源氏(げんじ)にかこまれると(おも)い、また(ふね)でにげ()します。伊勢三郎(いせのさぶろう)は、田内教能(でんないのりよし)のところへ行って、平氏(へいし)はもうみな()けてしまい、教能(のりよし)(ちち)阿波民部重能(あわみんぶしげよし)は、源氏(げんじ)(あず)かっているので、降参(こうさん)するように(はな)します。すると、教能(のりよし)はその言葉(ことば)(しん)じて降参(こうさん)し、三千(さんぜん)もの(へい)源氏軍(げんじぐん)(くわ)わりました。
十六、瓜生が丘

 〜弁慶がつくる汁〜 目次 十八、無常

 〜すべて散り行く〜

詳細

明けて、平氏は船に乗り込み、志度の浦へと参ります。義経さまは、三百余騎のなかから、馬や人を選りすぐった八十余騎で、追いかけました。平家は、「敵は少数である。囲い込んで討ち取れ」とばかり、千余人が渚に上がり、わめき叫んでかかってきました。そこで、屋島に残りとどまっていた二百余騎の兵が、おくればせながらはせ参じます。これを見た平家は、「源氏の軍が大勢続いてやってくる。何十万騎あるかわからぬ。囲まれては、勝ち目は無い」と言って、また船に乗り移り、潮にひかれ風に従って、どこを目指すでもなく、落ち延びて行ったのです。四国はすべて義経さまに従い、九州には範頼どのの軍勢がおりますので、もう平氏の行くところはどこにもありませんでした。

義経さまは、志度の浦に降り立って、討ち取った首を確かめておられました。そして、伊勢三郎義盛どのを召して、「阿波民部重能(あわみんぶしげよし)の息子、田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)は、河野四郎道信を攻めようと、三千余騎にて伊予に行ったが、今日はここへ到着すると聞いた。何とか言いくるめて連れてまいれ」とおうせになられました。義盛どのは、白旗を一ついただいてかかげ、わずか十六騎、みな白装束で出かけたのでした。

伊勢三郎義盛殿が使者を立てて申すには、「源氏の大将軍、九郎判官どのの家臣で伊勢三郎義盛と申す者であるが、大将に申すべきことがあってまいりました。戦をするためではないので、弓矢も持っておりません。どうかなかに入れてください」と、すると、田内左衛門教能の三千騎の兵はなかほどをあけて通してくれたのでした。義盛どのは、田内教能と馬を並べて、「すでにお聞きかもしれませんが、鎌倉殿の弟である九郎判官どのが、後白河法皇のご命令で西に向かったのですが、おととい阿波国勝浦にて、あなたの叔父である桜間(さくらば)の介どのを討ちました。昨日は、屋島に来て、御所をみな焼き払い、内大臣宗盛親子をいけどりにし、能登どのは自害なさいました。その他の公達も、あるいは討ち死に、あるいは海に入ってしまいました。阿波の民部どのは、自分から降参をいたしまして、義盛が預かっております。そこで、民部どのが申すには、『田内左衛門がこれを知らずに、明日は戦をして討たれてしまうのはあまりに無残である』と、夜もすがら嘆くので、あまりにかわいそうに思い、このことを知らせようと、ここまでやってきたのでございます」と。これを聞いた田内教能は、世間でも知られた勇者でありましたが、「かねがね聞いていたとおりでございます」と言って、甲を脱ぎ、弓の弦をはずして、家来に持たせました。大将が、このようにしましたら、三千余騎の兵はみな、同じように降参したのでした。