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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

十七、志度合戦

 〜わずか八十余騎で〜

十八、無常(むじょう) 〜すべて()()く〜

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西(にし)へと()げていった平氏(へいし)は、壇ノ浦(だんのうら)でほろぼされてしまいます。しかし、その4年後(ねんご)義経(よしつね)(あに)である頼朝(よりとも)(なか)(わる)く、頼朝(よりとも)(へい)()われて(きた)へと()げて()んでしまいます。そのすぐ(あと)で、与一(よいち)病気(びょうき)()くなってしまいます。たたかいのなかで()きた若者(わかもの)たちは、つぎつぎと(みじか)生涯(しょうがい)()えたのです。
十七、志度合戦

 〜わずか八十余騎で〜 目次

詳細

わずか十六騎で三千余騎の敵をわが軍のものとした伊勢三郎どの。「義盛のはかりごとは、たいしたものだ」と義経さまも感心しきりでした。田内左衛門教能は、武器などは取り上げられ、伊勢三郎に預けられたました。田内教能を人質にしたことで、その父である阿波民部重能(あわみんぶしげよし)は、壇ノ浦で平氏を裏切り、これが平氏滅亡の大きな要因ともなるのです。

そして、ようやく二十二日の辰刻(たつのこく)の頃、大坂に留まっていた二百余艘の船が、梶原景時さまを大将として、屋島の磯に到着しました。「西国はみな九郎判官さまが落とされた。今ごろ来ても、間が抜けているだけだ」と、われわれは笑ったものでした。このときの義経さまは、飛ぶ鳥を落とす勢い。どのような大軍とても敵ではありませんでした。しかし、ほんとうの敵は平氏でも、大軍でもなく、身内との心の行き違いにありました。景時さまは、船出のときの逆櫓の言い争いや、屋島合戦で遅れをとったことなど、先々恨みに思い、頼朝さまに義経さまのことを決して良くは言わなかったのです。

平氏を西へ追い詰め滅ぼした義経さまは、この年よりたった四年後の文治五年、頼朝さまに北へと追い詰められ自害なさいます。落ち延びて思い起こされたのは、輝きに満ちていた一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦の日々でございましたでしょう。熱い魂を持った、仲間たちに囲まれて、真っ直ぐに駆け抜けた日々。私は、そのようなお仲間に恵まれた義経さまが、いつまでもまぶしく胸に残っておりました。

私のその後は、扇の的を射たほうびに、頼朝さまより那須の後継ぎとしての地位をたまわり、武蔵や信濃など五つの国(注釈1:与一が賜ったと伝えられる領地:丹波国五賀庄(京都府船井郡日吉町)・信濃国角豆庄(長野県松本市、塩尻市)・若狭国東宮河原庄(福井県小浜市)・武蔵国太田庄(埼玉県行田市、羽生市)・備中国絵原庄(岡山県井原市))の領地をたまわりました。私は、那須家の十一番目の息子でございました。わが家においては兄弟が仲良くするのが最良のことと思い、兄たちと領地を分かち合うことにいたしました。

そういう私も、義経さまが自害して間もなく、頼朝さまのお供で都に上り、病に倒れます。今度、生まれ変わるときには、戦のない時代に生まれたいと願いながら、短い生涯に別れを告げたのです。

注釈1五つの国:与一が賜ったと伝えられる領地:丹波国五賀庄(京都府船井郡日吉町)・信濃国角豆庄(長野県松本市、塩尻市)・若狭国東宮河原庄(福井県小浜市)・武蔵国太田庄(埼玉県行田市、羽生市)・備中国絵原庄(岡山県井原市)

屋島合戦の謎 その12

義経の死は謎に包まれている?
屋島合戦で見事な働きをした義経。壇ノ浦で平氏を滅ぼして栄華を極めるかと思えたのに、兄に追われて奥州衣川で自害。しかし、その後も、北に逃げ延びた義経がジンギスカンになったという話まで伝わるほど、義経の死には謎があります。炎につつまれて亡くなった義経の首を、一ヶ月かけて鎌倉に運び確認したと伝えられていますが、そのような状況で義経の首かどうか見分けがついたのかと誰もが疑うところです。ジンギスカンになったという話は、江戸時代の「金史別本」が発端となったそうですが、ジンギスカンと義経の不思議な共通点も幾つかあるようです。その真偽は別として、後々の人が義経の生存を望んだことは事実です。ちなみに、与一は建久元年(1190年)に亡くなったとも、出家して60過ぎまで生きていたとも、いろいろに伝えられています。
八百年以上も前のはるかな時代に生きた義経や与一。時代を経ても輝いている若きヒーローたちの、たどった讃岐路。そこには、数々の謎を秘めた史跡と、古戦場の昔をしのばせる風景があります。