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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

おもな登場人物

(みなもと)義経(よしつね) (1159〜1189年)
源平合戦の源氏軍の総大将である源頼朝の弟で、屋島合戦の源氏の大将。

1159年、源義朝の九男として生まれた。 同年に父である義朝が平治の乱で死亡。 美貌の母、常盤御前が父の敵であった平清盛の庇護を受け、命を助けられる。 11歳で僧侶になるために鞍馬寺に預けられる。 まもなく、寺を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せる。 その途中、熱田神宮で元服したとも伝えられる。
1180年、22歳のときに、兄である頼朝の挙兵を聞き、黄瀬川の宿で兄と対面する。
1184年、宇治川の戦いで木曾義仲を破る。次に一の谷の合戦で平氏を破る。
そして、1185年に屋島合戦で、遠征軍の大将として平氏を破り、壇ノ浦に追い詰めて平家を滅ぼす。
しかし、頼朝に鎌倉に入ることを許されず、叔父行家が義経に近づき頼朝への謀反を企て、それにより頼朝は義経追悼の命令を出す。
義経は京都を出て逃亡生活となる。平泉にたどり着くが、秀衡は亡くなり、秀衡の息子である泰衡に攻められ、衣川館で亡くなる。

梶原(かじわら)景時(がけとき) (?〜1200年)
源氏の武士で、屋島合戦に出発する義経と言い争った。

源頼朝に仕えた鎌倉前期の武士。先祖は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏で、鎌倉五郎景清の子で通称は平三と呼ばれた。
1180年、石橋山の戦いの際、平氏側に属しながら源頼朝の窮地を救ったことから、頼朝の信頼を得る。その後、息子の景季とともに、源平合戦で活躍する。屋島の戦いに出発するときには、船の後ろに櫓をつける「逆櫓」について、義経と言い争った。それを恨んで義経を陥れようと頼朝に進言する。鎌倉幕府では要職に着き活躍したが、今度は源頼家に進言して、結城朝光を陥れようとしたため、有力御家人たちの弾劾を受けて失脚、鎌倉を追われた。

伊勢(いせ)義盛(よしもり) (?〜1186年)
源義経の家来

源義経の家来で、一説では「義経四天王」と呼ばれた腹心の一人。通称は三郎と呼ばれた。伊勢国司の子であるという説、山賊の子であるという説、上野国で家来になったという説などがある。平家最後の壇ノ浦の戦いでは、平宗盛、清宗親子を生け捕った。義経の都落ちにも同行するが、大物浦で嵐に遭いはぐれてしまう。最後は、伊勢で守護を襲撃して敗れ自害したという。

義経四天王:義経の最も重要な四人の家来のことで、鎌田盛政・鎌田光政・佐藤継信・佐藤忠信という説、武蔵坊弁慶・伊勢義盛・亀井重清・常陸坊海尊という説、亀井重清・片岡八郎・駿河次郎・常陸坊海尊という説などある。

佐藤(さとう)三郎兵衛継信(さぶろべいつぐのぶ) (1158〜1185年)
佐藤(さとう)四郎兵衛忠信(しろべいただのぶ) (1161〜1186年)
兄弟共に義経の家来。屋島合戦で、兄の継信は義経の身代わりになって射殺される。弟は菊王丸を討った。

兄弟共に、義経が身を寄せていた平泉の藤原秀衡の家来であったが、義経が頼朝の挙兵で参戦する際に、秀衡が義経の家来として従うように命じた。
1185年、兄の継信は屋島の戦いで、義経の身代わりとなり、平家の能登守に射ぬかれて戦死。
同年、弟の忠信は、義経が雪の吉野山に逃れたときに、追手の僧兵に自分が義経だと言って、義経一行を無事に逃がした。翌年、京都で北条時政の兵に襲われ自害する。
命に変えても義経を守った二人は、謡曲にもなり忠義の手本として後々まで語り伝えられた。