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屋島合戦(やしまかっせん)
    
紙芝居(かみしばい)

KAMI SHIBAI

おもな登場人物

武蔵(むさし)坊弁慶(ぼうべんけい) (?〜1189年)
義経の家来。いつも義経の近くにいて、義経の世話をしたり、守ったりしていた。

その出生は定かではないが、和歌山県の田辺市には、弁慶の産湯の井戸が残っているという。生まれたときには、18ヶ月も母のお腹のなかにいて、普通の赤ん坊の3倍あり、髪は肩まで伸びて、歯も生えていたと語り継がれ、幼名は鬼若丸といった。
「義経紀」には、関白藤原道隆の子孫にあたる熊野別当湛増が父で、大納言の姫君が母で、養父は比叡山の高貴な僧侶の出である。6歳で比叡山に預けられ、武蔵坊で修行をしていたので武蔵坊弁慶と名のるようになる。
比叡山を脱け出し、次の書写山では大暴れして追放され、京の都で義経と決闘し、負けて家来となる。後に御伽草子で、その舞台は五条大橋と語り伝えられる。
1187年、追われる身となった義経が都を出立してからの弁慶の活躍は有名。疑われた義経を打ち据えて疑いを晴らしたり、何も書かれていない勧進帳を読み上げたりと、歌舞伎「勧進帳」などで今に伝えられる。
1189年、最後は義経を守るために幾つもの矢に射ぬかれながら立ったまま往生を遂げ、後に「弁慶の立ち往生」という言葉が残る。

那須与一宗高 (?)
屋島合戦で扇の的を射た、義経の家来。

屋島合戦で扇の的を見事射抜いた那須与一は、下野國(栃木県)那須の出身で、那須資隆の十一男。生没年は不明だが、「那須氏系図」によれば屋島合戦の時には17歳となっている。与一は、子どもの頃から弓や馬の稽古に励んだという。兄の宗質から弓を教わり、ぐんぐんと腕を上げた。
那須家は9人の兄弟が平氏に着き、与一と兄の十郎が源氏方についたといわれている。
屋島合戦の功績により五つの領地を賜り、兄弟仲よく治めたともいう。
後に出家したと伝えられ、一説には、1190年、頼朝の上洛に従い、山城国伏見で亡くなったという。

(みなもと)範頼(のりより) (?〜1193年)
義経の兄で、最初に平家追悼を頼朝から命じられていた。平家追討軍の大将。

源義朝の六男、源頼朝の異母弟。義経の異母兄。三河国蒲御厨に生まれたので蒲冠者と呼ばれた。三河守。同国で育ち、藤原範季に養育されたので範頼と名のる。頼朝が挙兵すると駆けつけて、義経とともに木曾義中を討つ。一の谷では、大将軍として義経とともに平氏を討ち負かす。再び、平氏追悼に出るが苦戦し、義経の参戦で平氏は敗れる。九州における鎌倉幕府支配の確立に努め、鎌倉に帰っても重責に着くが、その後、頼朝に謀反の汚名を着せられ、1193年に伊豆へ流される。頼朝の命により梶原景時らの襲撃にあい、自害したと伝えられるが、その死には諸説ある。

源頼朝 (1147〜1199年)
義経の兄。源氏の総大将で、平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開く。

1147年に源義朝の三男として生まれる。幼名は「鬼武者」。母は熱田神宮の宮司の娘で正室の子であったので、正式な源氏の後継ぎとして育てられる。平治の乱で父義朝が敗れ、伊豆の蛭ヶ小島に島流しとなった。伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と結婚。
1180年、平家打倒の旗あげをする。義経などの活躍で、従兄弟にあたる木曾義仲を追いやり、平家を滅ぼし全国制覇を成し遂げる。平家滅亡の後は、兄弟である義経と、梶原景時の進言や後白河上皇の策略によって対立し、これを討つ。1192年に征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開き、日本史上初の武士による政権を誕生させた。1199年、落馬が原因で死亡する。