おもな登場人物
後白河法皇 (1127〜1192年)
鳥羽上皇の皇子で崇徳上皇の弟。策略家で、平氏や源氏の武力を巧みに操って権力を守った。鳥羽上皇第四皇子。母は権大納言藤原公実の娘、待賢門院璋子。
1155年、近衛天皇の死去に伴い、後白河天皇となる。翌年、兄の崇徳上皇に謀反の動きがあり、保元の乱が起こり、天皇はこの乱を平清盛・源義朝らの武力によって制圧した。
1158年、天皇に即位してからわずか3年ほどで二条天皇に譲位し、院政をしいた。
その後、平清盛と計って二条天皇の弟高倉天皇を即位させ、政治の実権を握るようになる。平氏が勢力を強めると、鹿ヶ谷で平氏打倒の謀議をこらし清盛との関係も悪化。1159年、平治の乱により、清盛によって鳥羽殿に幽閉されてしまう。
高倉上皇や清盛が没すると、1181年に院政を再開し、今度は源頼朝ら源氏に平氏を追討させる。また都に入った木曽義仲を退けようとして、逆に捕らえられたので、義経・範頼らに追討させた。今度は、平氏を滅ぼした義経と兄頼朝との対立をあおり、最初は義経の要請を受けて頼朝追討の宣旨を出すが、結果的には頼朝に義経追悼の院宣を出す。しかし、頼朝にも征夷大将軍を与えず、1192年に亡くなるまで自分の権勢を守った。『
平 教経 (能登守 )
(1180〜1185年)
平氏のなかで最も強いといわれた武将。屋島合戦では佐藤継信を射殺した。平教盛の子。清盛の甥。1179年に、正五位下能登守となる。1181年、北陸道追討軍の副将軍となる。平家一門最強の武将、大将軍とも言われ、源平合戦においては義経の好敵手であった。弓の名手でもあり、屋島では義経を射殺そうとするが、義経の家来に阻まれ、佐藤継信がその矢に倒れる。
最後の壇ノ浦では義経を追い、義経が船を飛んで「義経の八艘飛び」の言葉も残っている。
最後は、挑みかかる源氏の安芸太郎、次郎兄弟を両脇に抱え、海に飛び込んだという。この時、26歳であった。
悪七兵衛 景清 (藤原 景清 )
(?〜1196年)
平氏の武将で大変な力持ちといわれ、屋島合戦では「しころびき」の話で有名。藤原
その後、
菊王丸
(?)
能登守の家来。屋島合戦では、佐藤忠信に討たれる。出自等不詳
はじめ教経守の兄にあたる平
屋島の合戦の折、教経の弓に撃たれた奥州藤原秀衡の家臣・佐藤継信の首を打とうとしたところを継信の弟・忠信に射殺された。能登守が屋島のふもとに手厚く埋葬したという、弱冠18歳であった。謡曲「屋島」などにも登場する。
平 宗盛
(1147〜1185年)
清盛の息子で、平氏の総大将。決断力に欠け、屋島合戦でも平氏を敗退させてしまう。平清盛の三男。母は平時信の娘である清盛の正室時子。長兄重盛の死後、平家を継ぐ。安徳天皇の外戚として朝廷に権勢を持った。1181年、清盛の死後は平家の総大将となる。1182年、権大納言・内大臣に昇進するが、翌年、木曾義仲が平氏の軍勢を打ち破ると、安徳天皇とともに都を捨て西に逃亡する。1185年、壇ノ浦において、義経率いる源氏軍により滅亡。最後までおたおたするばかりで海に飛び込むが、源氏に生け捕られ鎌倉に送られる。39歳のとき、京へ送られる途中、近江国で義経の部下に惨殺されたと伝えられる。





